2002年4月で49歳になりました。
数年前に潜った珊瑚礁がとても綺麗な海に、最近改めて潜ってみるのですが、たった数年の間に見るも無惨な変わり果てた姿に驚きます。こんなに早く大自然が変わっていいのだろうかと思わずにはいられません。
3年ほど前に東京で不眠症になり、催眠術で過去に戻って原因を探っていくと、私自身の魂は過去に何度か天変地異に遭遇しているようで、そのことへのカルマが今も自分に大きく作用しているようです。
特に何かが狂いだしたような近年はその気持ちを強く感じます。
1981年からロサンゼルスに12年暮らしました。
自分はどんな仕事が向いているのか、自分の才能は本当にあるのか、アメリカに渡るまでに40近い職業や職場を転々としました。
アメリカでも会社を2回破綻させ、10回ほど職業を変えました。
日本のバブル後半に不動産屋をロサンゼルスでやり、何十億かの物件の売買を仲介して、そのコミッションで二人乗りのロビンソンというヘリコプターを買いました。日本人のインストラクターを社員に雇い、物件を空から視察しながら操縦を習ったりしていました。
このことが後にもんじゃ屋を開店できるきっかけになるのですが、バブルの終焉とともに自分で投資していた不動産開発も破綻して破産、いつものように無一文になりました。
ただ一つ最後に残っていたデザインが好きだった白の初代レンジローバーを売り、そのお金で日本に帰ってきたのですが、日本で頼っていったところは、バブルを踊り続けてほとんど破産状態の会社ばかりでした。2〜3か月、そんな会社の事務所の机の上で寝起きしていました。
そんな時、日本の不動産屋が税金対策で買っていたヘリコプターの売買の話があり、アメリカ時代の航空機関係の知人を通してニュージーランドと南米に3機ほど販売し、一千万ほどの資金を手に入れることができました。
そのお金を元手に、不良債権になり始めた物件を探し、最初は不動産価格の下落率一番といわれた佃、月島で古いアパートを賃借権で一棟借りして、日本で日本語を学ぶためにアジアから来ている留学生の寮を運営しはじめました。
当時、留学生たちのアルバイト先が少なくて困っていることが分かり、月島の賃借権物件の古い民家を自分たちで改造して、当時ブームを呼んでいたもんじゃ屋をはじめることにしました。
もんじゃ屋を始める2か月前まで「もんじゃ」が何であるか、札幌で生まれ育った自分には、食べたことも、聞いたことすらないものでしたが、5〜6軒の月島のもんじゃ屋を食べ歩き、単に四角い鍋で、自分たちであんかけ風料理を作る物がもんじゃと理解しました。また、ソース味と醤油味しかないことに気づきました。
中華味に、すき焼き味、イタリアン味のもんじゃがあれば美味しいのにと思い、現在の「月島もんじゃムーの子孫」のメニューを2日で考案してみました。
味の創作は芸術だと思うので、すべて自分の才能で処理しました。(自画自賛)
最初の店は「もんじゃ伝説 天浮船」“あめのうきふね”といいます。
現在は、資産管理会社(株)天浮船があるだけで、まさに伝説と帰しました。
最初から130席の大型店を開店してみたのですが、それは月島のほとんどのもんじゃ屋が小規模であることから、戦略的に、新規参入でも大型店であれば価格破壊や食べ放題の戦術が効果的に利用できると考えたからです。
月島西仲通り商店街に「もんじゃ伝説 天浮船」2号店と「月島もんじゃ ムーの子孫」の150席クラス2軒を6か月以内という短期間に出しました。しかし、このことが地元との対立問題をよび、のちに当社が「統一協会だ。統一協会の資金だから急激に何軒も店を出せるのだ」という噂を立てられ、風評被害を受けるはじまりになります。
「下町」という言葉には、何かノスタルジックなイメージとそこで暮らす人々の人情や明るい人柄など良いイメージが浮かびますが、それはお客さんとして見学するときの話です。「よそ者」がそこに住み、地元と競い合う商売をしだすとなると話は違い、特異な排他的封建社会がそこに存在します。
最初の5年間は目に見えない憎悪の妖怪が、区役所の役人や保健所、警察、地元のやくざにまで変身して襲ってきました。
とくに警察。今でこそ警察に不祥事がつきものということが分かってきましたが、当時7人もの刑事が家宅捜索の令状をちらつかせ、「もんじゃ伝説 天浮船」に“がさいれ”に来たときは、さすがに驚きました。
なんでも未成年に酒を積極的に販売したということで、その未成年者たちの予約表と伝票を出せと言うので、それらを探して渡すとさっさと帰っていきました。
わざわざ令状を取り、7人も来ていながら、家宅捜査らしいこともせず、さっさと引き上げるのを見て、威嚇や脅しのたぐいの行動とそこで初めてわかりました。
この後、地元の妖怪との月島警察署での壮絶な戦いが幕を切って落とします。
つづく
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